大正一四年六月十五日生まれの僕は、昭和の年号と満年齢が同じだから、満二〇歳の時であった。
その前年一九年一二月、一年繰り上げの現役召集で近衛第五連隊へ応召、同月そのまま北支派遣軍へ転属、千葉県佐倉の東部六四部隊へ集合的に入隊、五日程で北支へ出発し釜山から列車は国境を通過、中国は河南省新郷市を経て済源鎮駅で下車、さらに奥地へ行軍して駐屯部隊へ入隊し初年兵教育を受けた。翌年二月、膝までつかる雪中行軍し済源から新郷よりの清化鎮へ移動、ここで乙種幹部候補生教育隊を経て応召から九ヶ月余りの頃、開封市で迎えた終戦であった。
甲種幹部候補生は教育地の関係でシベリアに抑留され、戦後に死線をさ迷い辛苦を舐め、復員も二四年以後になった者が多い。運命の摩訶不思議と言う他ない。
八月一日下士官に任官したが僕ら乙幹は原隊復帰なく一五日を迎え、現地部隊の中に全員伍長の第六中隊を臨時編成し編入、部隊がそのまま俘虜収容所となり、中国内戦の影響で多少の兵器を持つ部隊とし開封に残り、奥地から順繰りに来る復員列車を見送った。やがて二一年四月、有蓋貨車に乗り、徐州を経て上海へ出る。ここで完全武装解除のうえ山口県仙崎港へ上陸復員した。
終戦までは米軍機の機銃掃射や八路軍(今の中国軍)との小競り合いはあったが、食料や衣服にさしたる不自由もなく過ごし、外地からでは早めの内地帰還であったと思う。仙崎でDDTの洗礼を受け、ガリ版刷りでペラペラ用紙の従軍証明書や神戸までの切符等を貰い除隊する。
車窓から見た広島は誠に無残。下車した神戸も往時の姿なく、幸い共に出征し復員した学友・戦友の家に一泊し、出征当時の兵庫区水木通り三丁目の実家焼跡の伝言立札を見て、区役所に行き豊郷駅までの証明を受け、駅から相当の道程をトボトボと歩き郷里の滋賀県秦荘町安孫子へ、予告の術も無く辿り着く思いで突然帰ったのは、夜中一二時過ぎであった。
きしくも長兄・清も台湾から三月に帰ったばかり、母・静の驚きと喜びは深いものであった。僕の名「ユズル・・・ゥゥ・・・」と叫んだきり後の言葉も出ず、母はそのままへたり込んだ光景は今もって僕の心に鮮やかに刻まれている。思うに其の時、母は五一歳であったわけだ。
前年の終戦直前七月に父・清右衛門が五六歳で病死し、次兄・寛(神戸大学から海軍主計に学徒応召、中尉)が父より前の五月に、ジャワ小スンダ列島沖で戦死したと言う公報を受け、そして間も無く三男の僕が帰って来たのだ。これで、既に嫁いだ長女や、長兄、次女、四男ら家族が、そしてまた、母自身の親戚・縁者らが揃うた安心に他ならない。終戦後も音信不通の僕が最後に帰って来たのだ。これで神戸を焼け出された苦労も吹っ飛んだ。
しかし、間も無く家族は再びバラバラになる。夫々が戦後の生活を求めて…。長兄も復職、僕も太陽産業(後の太陽鉱工)に復職。
戦前、僕は旧制商業を出てS一八年一月に軍需工場川西航空を断って、神戸の大商人・金子直吉翁に憧れて入社した旧鈴木商店後継の太陽産業(後の太陽鉱工)に入社。
入社時代は役員秘書室の書記見習等を勤め、金子翁が創業し人材養成した神戸製鋼の浅田・田宮・外島氏、日商の永井・高畑氏、帝人の大屋氏ら多くの経営者の矜持に直接触れ得た事は僕の社会人第一歩の人間形成に良い影響を受けた。然し運命のいたずら、入社を断った川西へ徴用されて工員となる。社員で入社した学友と再会、鳴尾の寮にいたが、間も無く召集令状を受け近衛第五連隊へ現役応召、以後のことは先に記述した。
さて話を復員後に戻し、弟は滋賀大を卒業し東京へ、姉は縁あって嫁ぎ、母は安孫子で二〇数年一人住まいするが、喜寿を機に芦屋の僕の家に来て九四歳で大往生した。月日の立つのは早いものだ、光陰矢の如し。その僕も今年で満八〇歳の仐寿を迎えた。
母が安孫子一人住まいの中で、つれづれに書きとめた和歌を母の米寿記念に土筆(歌集つくし)を上梓した。母の弟の肝入れに僕らも相乗りしたが、子の僕に歌の趣味は遺伝せず、僕は将に無趣味で乾燥品の如し。趣味の大切さを今あらためて思う。少しオソイ反省。
ところで僕は太陽産業へ復職したが、既に金子さんは無く転職を決意、商業の同窓生の誘いで材木商F店に入るが、彼は僕と交代で辞め、僕は材木屋を天職にしたく、山林事業や素材生産・製材業を原点から学び、其のうえで製品販売する事を志し、同窓生の後を追うようにF店を辞めたが、この短期間の経験が買われて(売り込んで?)小学校と軍隊が一緒の者の紹介で、彼が居た宮地汽船会社の林業部に入り、彼の灘区水道筋の家に下宿する事となる。直ちに和歌山県新宮出張所に勤務し、瀞八丁辺等で山番頭になり働く。二一年秋の事であった。
その後には兵庫県神崎郡寺前村の山林に勤務し、宮地直営の芦屋製材会社ヘ転勤したが、汽船会社専業化のため芦屋製材所は二四年七月に廃業となる。僕は他の部門に移る気は無い。
「材木屋を一生の仕事・天職にしたい」などと、宮地民之助社長に言い張った。
宮地社長は僕の一生の恩人だ。本人はリュウマチで下半身が不自由でも口は達者で、誠に貴重な教えを色々と受けた。良き先達に恵まれ幸先の良い戦後のスタートであった。
「それなら芦屋製材所の後は、お前が自分で頑張ってやれ、瀬川商店を立ち上げろ……」。「俺も若くして船具店を開いたぞ…、お前やれ」。そして富子奥様からは「頑張りなさい。主人と共に御成功を祈って居ります」。戦後に入社三年足らずの僕に、然も若輩で無一文の僕に、何と有り難いお言葉、言い尽くせぬ感激、この恩顧に報いる独立を決意した。
宮地様には色々な教訓を受けた貴重な思い出が一杯ある。
前記の寺前山林勤務の時、前任者は地元業者と色々あったようだが僕にも「横流しや桧と杉・元木と末木を交換し価値差額の贈与」等の誘惑があり僕は全て断っていた。宮地様はこのような現地事情を知って居られたようだ。閉鎖に当りこの地元業者に山林売却が決まり僕に契約書を書いて見ろと言う。知識経験はなく書けないと言う僕に「この月給泥棒、不勉強者」と一喝「研究して書き、これで宜しいか。と持って来るのが仕事だ」と教えられた。とにかく手探りの勉強して持参した。勿論良いとは言わず「村田顧問弁護士に教えてもらえ」の一言。
弁護士の村田先生は極めて親切に契約の意義や書式の要領を説明、文書結語の「依而、相違無事如件」(依って、相違の無い事は件(クダン)の如し)のクダンが分かるか。件とは「人と牛の合の子」で世の中で有り得ない事を言うと教えられた。僕が法律に目を向け文書を大切にする原点と思っている。売却代金二四〇万円、当時百円札現金で運び、電車内で居眠りし心臓が飛び出す密かな思い出がある。
この山林売却先の製材所は、僕が独立後の大切な荷主でドンドン信用売りして頂いた。
宮地様が或日、「ここに百円有るとする、君は何に使うか」。僕「洋服買います(兄の結婚式に着る服なくジャンパァーで出た)」。「そうか、ところでここに一万円有るとする、君は月に幾ら儲けるか」。僕「費用を差引し純益五百円位・・・」。「其の儲けで服を買え、百円は一万円の一ヶ月分の利息で元手となる、元手は先に使うな。金を生かして使え」。僕「百円と一万円の両替は・・・?」「銀行で借れる信用つくれ、君は其の事業を誠実にやれ」。僕は心に刻む大切な教えを受けた。
勝手な贅沢とバブルの始末で苦労し利益追及一辺倒の今の銀行は、この話をどう聞くであろうか。戦後の激しいインフレ対応の商売で叱られ、商売に無駄や遊びは無いと厳しく教えられた。
かくして僕は満二四歳で独立した。東海道線芦屋駅を前にした宮地さんの土地と建物を借り、木材販売、製材業・瀬川商店を個人創業。その最初の振替伝票次の如し。
現 金 : 元入れ金 50、000円也 木材業を始む。 昭和二四年八月一日。
第 二 章 新建材卸売業へ移行、そして廃業に至る事など
一三年後、昭和三七年四月、株式会社に法人成りした。その直後、宮地様の借入土地は会社が購入、思はぬ廉価買い分や、以後の地価値上がりが含み資産となり信用は一挙に拡大する。
高度成長時代と波長も合い順調であった。顧みてS二四年から三四年の十年は木材中心の成長時代、三四年に新建材特約店となり六〇年位までの二五年は卸売業拡張時代、その後は時の政経事情と共に調整時代。
其の頃のバブルに踊らず、宮地様恩顧の芦屋駅前創業地を思い切って売却、買替資産を図り含みの移転が会社延命の基礎となった。
結果的に思えばその時が時代の変り目、思い切って転業の時だったが、頭をかすめた其の思いは宮地様のこと、家庭事情やその他の判断から本業を継続した。其の頃、周辺に洩らした僕の言葉、「製品中心のルート卸で大きく成った瀬川。然し此の形態では何れ破滅、そのために潰れる」。
この予言は不幸にも的中しズルズルと継続するうち、三四年特約以来の販売先でメーカーの営業政策で言うパートナー店の製材所が倒産、数千万円余の貸倒金発生。強行に債権保全を図るメーカーは瀬川を責め立て、僕は建材部門廃業を決め全資産を開示し早期完済を約束、全社員の就職にも成功した。
独立のとき満二四歳。それから五〇年、平成一一年一月七四歳で事業を閉じ会社は残した。